吉原神社と吉原弁財天は、かつて遊郭として栄えた吉原の歴史を今に伝える、深いつながりのある神社です。両社にまつわる歴史や遊女たちの物語などに触れてみたいと思います。
吉原神社の歴史

吉原神社は、かつての吉原遊郭、現在の東京都台東区千束に鎮座する神社です。その起源は、1657年(明暦3年)の明暦の大火による吉原の移転に遡ります。
移転と稲荷信仰
火災後、吉原は現在の地に移転しました。境内には、かつて吉原遊郭内にあった五つの稲荷神社(九郎助稲荷、吉徳稲荷、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷)が合祀されています。

吉原神社・九郎助稲荷の神狐。普段は内陣に安置してあるそうです。
関東大震災と弁財天
1923年(大正12年)の関東大震災では、吉原も大きな被害を受けました。 この震災後、遊郭の守護神として、弁天池に祀られていた弁財天が吉原神社に合祀されました。 昭和10年(1935年)に吉原弁財天は吉原神社に合祀されました。
吉原弁財天の歴史

吉原弁財天は、もともと吉原遊郭の弁天池に祀られていた弁財天です。
弁天池と弁財天
弁天池は、遊郭の造成時に作られた池であり、そこに弁財天が祀られました。 弁財天は、財福、芸能、水の神として信仰を集め、遊女たちからも厚く信仰されていました。

関東大震災の時には多くの遊女がこの弁天池に逃れ、溺れ、亡くなってしまったとのことです。
関東大震災後、吉原弁財天は吉原神社に合祀され、現在に至ります。 現在、弁天池は吉原神社の飛び地となっています。
遊女と神社
吉原神社と吉原弁財天は、遊女たちにとって心の拠り所でした。

信仰と心の支え
遊女たちは、神社に参拝し、芸事の上達や良縁、健康などを祈願しました。また、辛い境遇にある遊女たちにとって、神社は心の安らぎを得る場所でもありました。
文化と芸能
吉原では、神社を中心とした祭礼や行事が盛んに行われ、遊女たちは芸能を奉納するなど、文化的な役割も担っていました。
遊女の位
教養、容姿、芸事の全てにおいて、優れた者のみがなれた吉原の最高位、花魁。高い教養や芸事に加え、客を選ぶこともできたため、非常に高い地位と人気を誇りました。
花魁に続くのが、格子(こうし):太夫に準ずる高位の遊女。 昼三(ひるさん):昼の接客が中心の遊女。 新造(しんぞう):花魁見習いの遊女。 禿(かむろ):花魁に仕える少女。 その他、様々な階級の遊女がいました。
位が高い遊女ほど、客を選ぶことができ、高い教養や芸事が求められました。位が低い遊女は、より多くの客を接客する必要がありました。また、位によって衣装や装飾品、生活環境なども大きく異なりました。
吉原の遊女の位は、単なる身分制度ではなく、遊女たちの生き方や文化を象徴するものでした。

新吉原大門入口。ここから先は別世界だったのでしょう。
現在の吉原神社と吉原弁財天
現在の吉原神社と吉原弁財天は、かつての遊郭の面影を残しつつ、地域の神社として人々に親しまれています。現在も、多くの人々が参拝に訪れています。
また2025年のNHK大河ドラマで取り上げられており、ますます賑わっています。
御朱印とまとめ


御朱印は6種類ありました。すべて書置きです。弁財天、九郎助稲荷、吉原神社の御朱印を頂いてきました。
吉原神社と吉原弁財天は、遊郭の歴史と遊女たちの哀歓を今に伝える貴重な文化遺産です。二社を訪れる人々の祈りが、遊女たちに届くように願ってやみません。

吉原神社・吉原弁財天アクセス
吉原神社:〒111-0031 東京都台東区千束3丁目20−2
- 東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」 徒歩15分
- 都バス「千束」「吉原大門」 徒歩5分
- 北めぐりん「台東病院」 徒歩約1分
吉原弁財天本宮:〒111-0031 東京都台東区千束3丁目20−2
- 日比谷線「入谷駅」徒歩14分
- 北めぐりん 「千束三丁目」徒歩約2分
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