平将門公の首塚、将門塚は祟りとご利益を招く都心のパワースポット!その歴史と伝説をご紹介

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日本三大怨霊と呼ばれる非業の死を遂げた歴史上の三人のうちの一人、平将門の首塚、将門塚に行ってまいりました。今回は、東京の中心部にある不思議な史跡、将門塚について紹介したいと思います。将門塚とは、平安時代に関東の八ヶ国を制圧し、新皇と名乗った武将・平将門の首を供養するために作られた塚です。この塚には、将門の怨霊が宿っているという恐ろしい話や、出世のご利益があるという嬉しい話があります。平将門の首塚の歴史と伝説を見ていきましょう。

将門塚の歴史

平将門

平将門の首塚の歴史は、平将門の乱という一大反乱にまで遡ります。平将門の乱とは、940年に関東で起こった一大反乱のことで、伊予で起こった藤原純友の乱と合わせて承平天慶の乱とも呼ばれています。平将門は、桓武平氏の一族で、関東地方を中心に勢力を広げた武士でした。しかし、親族間の争いや朝廷の圧迫に耐えかねて、関東の国司を追放し、自ら新皇と称しました。これに対して、朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、藤原秀郷や源経基らを率いて討伐軍を派遣しました。平将門は、討伐軍と激戦を繰り広げましたが、最終的には敗れて討ち死にしました。

平将門の死後、その首は京都に運ばれ、都大路の河原にさらされました。しかし、その首は腐らずに目を見開き、夜な夜な叫んだと言われています。そして、3日目にその首は空に飛び上がり、胴体を探すため故郷の関東に向かって飛んでいきました。その途中で力尽き落ちた場所が、現在の東京都千代田区大手町にある平将門の首塚と言われています。この首塚は、14世紀初頭に近くにあった神田明神が将門の霊を供養するために建てたものです。

平将門の首塚の祟りとご利益

平将門の首塚は、日本三大怨霊の一人とされる将門の祟りが恐れられてきました。江戸時代には、将門の首塚を壊そうとした人や、その近くに家を建てようとした人が次々と不幸になったという話があります。また、関東大震災や戦後の都市開発の際にも、首塚を移動させようとしたり、その周辺に建物を建てようとしたりした人や組織が、不審な事故や病気に見舞われたという話があります。現在でも、首塚の周辺のビルは、首塚に尻を向けないようにレイアウトされたり、首塚を見下ろすような窓を設けないように配慮されていると言います。

一方で、平将門の首塚は、出世のご利益があるとも言われています。これは、将門が武勇に優れ、関東の八ヶ国を制圧し、新皇と名乗ったことから、その気概や野心を尊敬する人が多かったからです。特に、江戸時代には、将門を神として祀る神田明神が江戸の総鎮守として崇敬され、将門の首塚もその一部として参拝されました。現在でも、ビジネスマンや受験生など、出世や成功を願う人が多く訪れています。

将門塚の見どころとアクセス

将門塚は、東京メトロ東西線・丸の内線・千代田線・半蔵門線、都営三田線「大手町駅」C5出口からすぐのところにあります。首塚は、高さ約1.5メートル、幅約2メートルの石碑で、表面には「平将門公之墓」と刻まれています。首塚の周りには、ウッドフェンスや将門公の九曜紋などが新しく設置され、令和の時代に合わせてスタイリッシュになっています。私的にはあまりにもおしゃれすぎて・・・とも思いますが周りのオフィスビルとは見事に調和しているように思います。東京大手町の高層ビルの谷間に位置する将門塚。これを見てると本当に移動させることができないんだなぁという祟りというよりもパワーを感じます。

都心のビル群の中に佇み、皇居を見据える将門塚。エネルギーが渦巻いているような不思議な史跡です。平将門の怨霊やご利益に触れることができるかもしれません。ぜひ一度、訪れてみてください。

ちなみに日本三大怨霊とは、「菅原道真」「平将門」「崇徳天皇」3人とも平安時代の人物です。この方たちが恐ろしい怨霊などと呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってから歌舞伎などが影響しているとのことです。「幽霊」という存在も江戸時代からですしね。

将門塚アクセス

千代田区大手町1-2-1
東京メトロ「大手町駅」C5出口、またはC6a出口からすぐ
JR「東京駅」丸の内北口から徒歩11分

hana

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都内中心にパワースポット巡りをしています。見てくれた皆さんにも幸せが届きますように。あとはただの呑んべぇ女です。

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