日本三大怨霊 「菅原道真」「平将門」「崇徳天皇」 怨霊から神へ。歴史の闇に潜む怨念の物語

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日本には古くから、怨念を抱いてこの世に留まり、災いを起こす霊的存在「怨霊」の伝承があります。その中でも特に有名なのが、菅原道真平将門崇徳天皇の三名で、日本三大怨霊と呼ばれています。

少し長くなりますが、この日本三大怨霊と言われるようになってしまった菅原道真、平将門、崇徳天皇について考えてみたいと思います。よろしければ最後までお付き合いください。

菅原道真 栄光から流刑、そして怨霊へ

日本三大怨霊
『北野天神縁起絵巻』に描かれた清涼殿落雷事件

菅原道真は、平安時代初期の学者・政治家であり、学問の神様として広く知られています。しかし、同時に恐るべき怨霊としても語り継がれており、その怨霊伝説は日本の歴史と文化に大きな影響を与えました。

幼少期から青年期:非凡な才能と早熟な活躍

道真は845年、九州の太宰府で生まれました。幼い頃から聡明で、5歳の時に漢詩を詠んだという逸話が残っています。大学寮で儒学を学び、文章博士の位を授与されました。

宇多天皇・醍醐天皇に仕える:政治家としての功績と対立

20代半ばで朝廷に出仕し、宇多天皇、醍醐天皇に仕えました。文章博士、蔵人頭、右大臣など、要職を歴任し、政治手腕を発揮しました。特に、遣唐使廃止や律令格式の編纂など、文化振興に大きく貢献しました。

右大臣として権勢を振るっていた道真は、藤原時平との権力闘争に敗れます。899年、昌泰の変と呼ばれる事件が起こり、道真は右大臣を解任され、九州の大宰府に左遷されます。

道真は左遷先の大宰府で、学問に励み、多くの詩歌や漢文を残しました。しかし、都を離れ、孤独な生活を送る中で、次第に朝廷への不満を募らせていきます。

903年、道真は59歳で病死します。その後、都で疫病や落雷などの災いが頻発。これらの災いは道真の怨念によるものとされ、怨霊伝説が生まれました。

怨霊となった道真:朝廷への復讐

道真の怨霊は、朝廷に様々な災いを起こしたとされています。

  • 醍醐天皇の皇太子・保明親王の早世
  • 藤原時平の急死
  • 藤原時平の息子・師輔の病
  • 洪水、干ばつ、地震などの自然災害

これらの災いは、道真が朝廷への復讐のために起こしたものと考えられました。

道真の怨霊を鎮めるために、朝廷は以下のような対策を講じました。

  • 道真を太政大臣に追贈する
  • 道真を祀る北野天満宮を建立する
  • 菅原氏の復権

これらの対策により、道真の怨霊は次第に鎮まったと言われています。

菅原道真ゆかりの地

道真の怨霊は人々に恐怖を与えましたが、同時に学問の神様としても信仰されるようになりました。これは、道真が生前、学問に励んだ人物であったことによるものです。

菅原道真ゆかりの地は全国各地に存在します。中でも有名なのが、京都市北区にある北野天満宮です。北野天満宮は、道真の怨霊を鎮めるために建立された神社で、現在も学問の神様として多くの人々が参拝に訪れています。東京都内では湯島天満宮(湯島天神)が有名です。

平将門 将門の乱と首塚伝

日本三大怨霊

平将門は、平安時代中期に関東地方を舞台に活躍した武将です。朝廷に反旗を翻し、新しい王朝を樹立しようとしました。しかし、朝廷軍との戦いに敗れ、非業の死を遂げます。

将門のヒーロー像

将門は桓武天皇の玄孫とされる平将基の子として、関東地方の豪族の家に生まれました。幼い頃から才知に恵まれ、武芸にも優れていたと言われています。

935年、当時関東地方では藤原氏と平氏による勢力争いが激化していました。将門は藤原氏と対立し、各地で勢力を拡大していきます。

939年、将門はついに京に上洛し、朝廷に宣戦布告します。そして、自ら「新皇」を称して新しい王朝を樹立しようとしました。しかし、朝廷軍との戦いに敗れ、捕らえられて斬首されます。

怨霊と化す将門公

首を落とされた胴体は現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬、京に運ばれた首は河原に晒されました。しかし晒された首は、腐りもせず、何ヶ月も目を閉じず、夜中に歯ぎしりをし、何かブツブツ呟いている、などの噂が絶えません。そしてとうとう将門の首は胴体を求めて東へ飛び立ちます。しかし、胴体が埋葬されている延命院までたどり着くことはなく、力尽きます。そしてその首が落ちた場所が将門塚(首塚)とされています。

この首塚が将門公の最も恐れられている場所ではないでしょうか。祟りと呼ばれる事故は関東大震災後から次々と起こりました。関東大震災で大打撃を受けた将門塚は当時放置されたままにあり、その地に当時の大蔵省仮庁舎建設しようとしたものの、工事関係者や省職員が相次いで病死、そして怪我。大蔵省は恐怖に慄き鎮魂碑を建立します。

その後の第二次世界大戦後、GHQは将門塚を撤去しようとしましたが、ここでも事故が起き人が亡くなっています。この事故もまた、将門の祟りによるものだと考えられ、撤去計画は中止されました。

平将門ゆかりの地

平将門ゆかりの地は、関東地方を中心に多く存在します。中でも有名なのが、東京都千代田区にある神田明神です。神田明神はもともとは将門の魂を鎮めるために建てられました。その後江戸の守護神となり人々を見守っています。

崇徳天皇 保元の乱と怨霊化

日本三大怨霊
『為朝誉十傑』「白縫姫 崇德院」安政5年(1858年)8月 椿説弓張月の一場面。鎮西八郎為朝の妻白縫姫が、讃岐に流罪となり魔道に落ちて天狗となり果てた崇徳院に会う場面。

崇徳天皇は、平安時代後期の天皇です。保元の乱で崇徳上皇は後白河天皇に敗れ、讃岐国に流されました。上皇は流刑先で憤死し、その怨念は怨霊となって、朝廷に様々な災いを起こしたとされています。

波乱に満ちた生涯・若き天皇の悲劇

5歳の時に即位した崇徳天皇でしたが、実権は父である鳥羽上皇が握っていました。鳥羽上皇は院政を敷き、政治を主導しました。崇徳天皇は政治的な影響力を持つことはほとんどできませんでした。

鳥羽上皇が亡くなると、崇徳天皇と弟の近衛天皇の間で皇位継承争いが勃発しました。これが保元の乱です。この乱で崇徳天皇は敗北し、讃岐国(現在の香川県)に配流されることになります。

過酷な軟禁生活・そして怨霊へ

讃岐国に流された崇徳天皇(崇徳院)は次第に仏教に傾倒して行きます。五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念します。完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しますが、呪詛が込められているのではないかと考えた後白河法皇はその写本を送り返します。

これに怒った崇徳院は舌を嚙み切った出た血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。この経を魔道に回向す」と書き込みます。髪と爪を伸ばし続け、夜叉の様な姿になり、崩御の際、崇徳院を収めた棺からは血があふれ出した、などの噂も。

怨霊となった天皇

崇徳院の怨念は、後世の人々に強い恐怖を与え、様々な物語や伝説を生み出しました。次々に人が亡くなる、天変地異が起こる、朝廷のゴタゴタ、政治の混乱もすべて怨霊となった崇徳天皇の祟りであるとされました。

崇徳天皇ゆかりの地

崇徳天皇ゆかりの地は、香川県を中心に多く存在します。東京都内で崇徳天皇をお祀りしている神社は文京区の金刀比羅宮東京分社が有名です。

怨霊は、裏切り、貶めた人の心が生んだもの

歴史を調べていくと、凄惨な出来事の上に今の平和が成り立っているんだ、とつくづく感じます。考え方はそれぞれですが、権力争いや冤罪、不当な扱いを受けたことの強い恨み。それをした側にすれば、罪悪感から偶然の出来事を怨霊と結びつけたのかもしれません。

いずれにしても悲しく壮絶な最期を迎え、怨霊と化した菅原道真・平将門・崇徳天皇の3名。今はそれぞれご祭神となり、人々の癒しとなってくださっています。同時に祀られている神社はどちらも強力なパワースポットです。
ゆかりの神社でご利益やパワーを頂くと同時に、歴史の残酷さを少し考えてみるのも、今生きてる私たちの役目なのかもしれませんね。

長い文章、最後まで読んでくださってありがとうございました。

hana

hana

都内中心にパワースポット巡りをしています。見てくれた皆さんにも幸せが届きますように。あとはただの呑んべぇ女です。

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